石橋正雄の「生き方上手じゃないけれど」

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zoom RSS 高橋和巳 「邪宗門」

<<   作成日時 : 2006/07/22 16:37   >>

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 かなり久しぶりのエントリとなる。というより、このブログのように趣味の一環として文章を書くこと自体も久しぶりのことである。そのような訳で、今回の文章は非常にたどたどしいものとなるかもしれない。せっかくこのブログにいらして頂いたのに酷い仕打ちをしてしまうことになってしまうが、何卒ご容赦願いたい。

 さて、今回は「4人の作家」シリーズの中でもハイライトとなるであろう作品、高橋和巳の「邪宗門」である。
 この作品であるが、かなり長い。私が読んだのは新潮文庫の上下巻であるが、各巻ともそれなりの厚みがある。恐らく、今回「4人の作家」シリーズとして読む予定である作品群の中では、最もボリュームのある作品になると思われる。
 このように、ただでさえ読むのに時間を要する作品である上に、私自身もさらに時間を要するような読み方をしてしまった。端的に言えば、ダラダラと読んでしまったのである。といっても、それは決してものぐさな読み方をしたというのではない。私生活上どうしてもしなければならない諸用事が多々あったため、そちらに時間を掛けなければならなかったからである。その分、この小説を読む時間を割くことができなかった、後回しにせざるを得なかったということである。
 結果として、この作品を読み始めたのが昨年の十一月下旬、上巻を読み終えたのが確か今年の二月頃、それから暫く間を置いて、下巻を読み始めたのが四月頃だったと思う。そして今や七月の下旬である訳であるから、読み始めてから読み終わった今日まで、なんと八ヵ月を要してしまったことになる。
(なお、この「4人の作家シリーズ」は今後も継続する予定であり、一作品を読み終えるたびにこのブログにその感想をエントリする予定である。しかし、「私生活上どうしてもしなければならない諸用事」は未だにあるため、エントリ毎の間隔が長期となることは避けられない見込みである)

 そろそろ作品の内容に話を移そう。
 この作品は左翼の圧倒的支持を受けていた雑誌「朝日ジャーナル」に連載された。そして単行本が上梓されたのが昭和四十一年である。もう四十年も前のことだ。
 この四十年間、余りにも多くのことがあり過ぎた。全共闘の発生、70年安保や浅間山荘事件による左翼の挫折、日中の国交回復、バブル景気とその崩壊、ソ連や東ドイツ等の各共産主義国家の崩壊、五十五年体制の崩壊、社会党の没落、オウム真理教その他カルト宗教の事件、世界各地で起こったテロ事件、アフガニスタンやイラクでの戦争と民主化、そして中国、韓国、北朝鮮の日本に対する威嚇や恫喝・・・
 そのため、この作品が上梓された時は当然かつ普遍的とされていた価値観には、今や大きな懐疑を向けられているものが少なからずある。そのため、この作品の読まれ方は、当時と現代とでは大きく異なることは否めない。いや、読まれ方だけではなく、作品に対する評価自体も大きく異なるだろう。
 発表当時、この作品は左翼思想を掲げる学生達によって圧倒的な支持を受けていた。当時の学生にとっては必読書とされていたそうだ。
 今となってはどうか?この作品が現代社会において、どれだけの価値を持つことになるであろうか?

 この「邪宗門」は、現存した宗教団体である「大本教」をモデルとした架空の宗教団体「ひのもと救霊会」の盛衰を綴った作品である。作品は三部構成となっており、第一部が昭和五年頃、第二部が昭和十五年頃、第三部が昭和二十年頃を時代背景として設定している。昭和五年頃は満州事変、昭和十五年頃は太平洋戦争、昭和二十年頃は敗戦と占領という、それぞれ日本にとって大きな節目となった年であり、各時代において「ひのもと救霊会」がどのように対峙してきたが作品中描かれている。
 「ひのもと救霊会」は土着的な宗教概念に神道の教義を織り交ぜて体系化した宗教であり、その思想の根本は言うなれば「世直し」「弱者救済」「自由の享受」であった。そして、国家を不当に権力を振りかざして人々を苦しめる悪人達と位置づけ、彼等を退治してより良い社会を築き上げよう、という考えが教義の根底にあった。
 それ故、「ひのもと救霊会」は国家から何度も弾圧を受けてきた。大正時代には淫司邪教として弾圧を受け、本部建物を爆破された。第一部では不敬罪のレッテルを貼られて非合法組織の扱いを受けた。第二部では天皇翼賛を掲げる皇国救世軍への転向に屈した。そして第三部では、敗戦による国家威信の低下を狙って武装蜂起を行うものの、占領軍によってあっけなく壊滅されてしまうのである。

 私はこの作品を読みながら、何度も疑問に思ったことがある。それは「正しいこととは何か」「正義とは何か」、ということである。
 「人を苦しめることは正しくない」→「国家は人を苦しめている」→「故に国家は正しくない。国家は悪である」。何とも単純な三段論法であるが、これが左翼思想の根本であろう。
 「人を苦しめる」というのは、例えば第一部では、昭和恐慌によって国全体の経済が疲弊している時に、資本家だけが潤うような政治を行い、多くの国民を犠牲にしていたことが挙げられる。
 未曾有の不景気にあっても、資本家たちは裕福な生活を送ることが出来た。貧民層は食うや食わずの状態に追いやられた。では資本家たちは本当に悪なのであろうか?
 この作品に限った話ではないが、残念ながら「力こそ正義」というのが世の中の必然である。「力」とは抽象的な表現であるが、要するに自己の思うままに周囲を動かすことの出来る影響力である。その「力」のバランスゲームにおいて勝利したものの考え方が、残念ながら「正義」となるのである。「力」を得られない者は、残念ながら「悪」と位置づけられてしまうのである。
 救霊会は布教を通じて信者を増やし、「力」を拡大して世直しを図ろうとしてきた。しかし、残念ながら救霊会は「力」を得られることなく、壊滅してしまった。それは結局のところ、人々が救霊会を支持しなかったからである。なぜかと言えば、それは作品中も明らかにされている通り、救霊会の考える「正義」が、根本的に排外的、反社会的なものであったからである。

 究極のところ、「正義」というのは極めて個人的な価値基準であると私は思う。それは即ち、「自分の存在に安全をもたらすもの」である。逆に、「自分の存在に危機を与えるもの」は、基本的に全て「敵」である。
 そして、自分は「正義」でありたい、「悪」でありたくない、と考えるのが人間の本性である。それ故、人間は自分のすることなすことが「正義」となるように、様々な行動を行うのである。時には「悪」と解釈されるようなことを行うこともあるだろうが、その時はそれを自分にとって「正義」であるように言い訳することもあるだろう。とすれば、一般的に反社会的と考えられている組織の人たちであっても、自分のしていることを「悪い」とは思っていないと考えられる。

 生きていくことは容易いことではない。様々な障害もあることだろう。その障害を自分の力で克服して、より快適な生活を享受する。これが自由主義的な社会の在り方である。
 しかし、その障害を自分の力で克服しないどころか、その原因は国家にあると決め付けるのが左翼の考えである。そして自分ひとりでは何もできないから、不満のある奴はみんな集まれ、国家に脅しを掛けて自分たちの言うことを聞かせよう、というのが殆どの左翼の考え方である。そして、自分たちの考え方こそ「正義」であり、それに反するものは全て「悪」だと決め付けているのである。
 どうであろう。このような左翼の行動様式と、一般的に反社会的組織と考えられている人たちと、どこがどう違うというのだろうか。

 その点、宗教組織はこの左翼の行動様式にぴったりマッチする。なぜならば、宗教の教義は絶対正義であるからだ。そのため、宗教の信者達は、教義に従っている限りどんなこともためらい無く行動できる。その余りの酷さについては、第三部におぞましいまでに描かれている。
 その宗教を国民の多くが掲げているのなら良いが、国民の多くの考え方と相容れない宗教を掲げている人たちは、反社会勢力と見做されても仕方がないだろう。
 もし信教の自由を唱えるのであれば、その宗教に従わない権利も認められてしかるべきだ。だのに、多くのカルト団体が信教の自由を盾にして自己の存在意義を主張しているにもかかわらず、脱会者に脅迫やリンチまがいのことをしているのはどういうことだろう?全く理屈にかなっていないのではないか。

 宗教はすべからく保護されてしかるべき、という考え方は、オウムを始めとした各種のカルト団体の実態が明るみになるにつれ、支持されなくなっていると思われる。怪しい宗教団体はやっぱり怪しい、という考え方が広まっていると思う。どんなに奇麗ごとを並べたところで、宗教が排外的な性格を有し続ける限り、反社会的思想のレッテルを貼られ、国家権力の圧力に晒されるのは、必然なのではないか。

 このように、宗教に対して疑いの目が向けられていると共に、共産主義を始めとした左翼思想に疑念が抱かれている現代において、「邪宗門」に描かれている思想を手放しで礼賛する人は少数派なのではないかと思われる。
 反国家権力を掲げる団体の宿命を赤裸々に描き出した、という点では「邪宗門」の作品としての意義は多いにあると思う。
しかし、「邪宗門」の愛読者や高橋和巳自体は、そのような読まれ方を期待していないだろう。寧ろ、「圧倒的な権力の前には正義を貫けない人間の弱さを描いた作品」→「だからこそ少しでも多くの人たちが覚醒して一致団結し、邪悪な権力を壊滅すべきだ」と考えることだろう。
 そのように考える人たちが私には余りにも浅はかに思えてならない。「正義」という概念が個人的、相対的な概念であることに、いつまでたっても気付かない人たちである。
 暴力に屈してしまうくらい身体が脆弱であれば、体を鍛えればよい。口喧嘩を恐れていつも言いなりになってしまうのなら、毅然と自己主張できるように弁を鍛えればよい。辛い仕事をさせられてばかりで死にそうなら、もっとよい職業に転職できるよう努力すればよい。
 そんな努力をすることから逃避して、恵まれない人たちを見つけては、その人たちの代理人を勝手に引き受けて、国家権力に意義申し立てをすることでフラストレーションを発散させている人たち。
 こんな人たちが格差社会だなんだと言って騒ぎ立てても、支持されないのは当然ではないかと私は考える。

【入手情報】
 上記に記載した新潮文庫版は既に絶版である上に、古本屋でもそれほど扱われておらず、入手はかなり困難である。しかし、朝日文庫版は現在も刊行されているので、そちらであれば比較的入手しやすい。

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