石橋正雄の「生き方上手じゃないけれど」

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zoom RSS 短編小説 「海辺の窓」

<<   作成日時 : 2006/01/10 23:43   >>

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 ブログを再開したにも係わらず、一ヶ月も放りっぱなしにしてしまった。 毎日のようにチェックしていた皆さん、誠に申し訳有りません。
 残念ながら、腰を据えて文章を書く余裕が、現在の自分には無いのである。そうなるには、もう少し時間がかかりそうだ。
 そこで暫くの間、私が過去に書いてストックしてある文章から、適宜ピックアップしてエントリすることにした。
 今回は私の書いた短編小説をエントリしたい。この作品は、私が小説を書くようになって間もない頃に書いたものである。改めて読んでみると、純文学に対する思い入れを感じずにはいられなかった。この頃のピュアな気持ちを忘れずにいたいものである。

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海辺の窓

 遥か下から、さざめく潮の音。
 目の前には一本の線。上は空色。下は紺碧。
 向こうからの涼風。木枠と欄干の窓を抜け、畳の上を撫でてゆく。窓の敷居に腰掛け、遠くをぼんやりと眺めている。
 遥か下から、さざめく潮の音。
 私は目を向けた。緑がかった潮が、細々とした岩間を抜け、崖にぺしゃりと打ちつける。白い波が壁をなめ、水際に泡が漂う。穏やかに、打ち寄せる小波。
 ああ、そうだった。
 私は、傍らにある竿を、窓の外へと伸ばした。金網の筒には、敢えてさびきを詰めない。さびきの箱を開けると、部屋の中が臭くなるし、しかもそれが手に付くと、臭いこともさることながら、手がべとべとになってしまう。さらに、その手で竿を持つと、そのにぎりまでがべとべとになってしまう。そもそも、こんなところで本気で釣ろうなどとは思っていない。ちょっとした、戯れだ。
リールのストッパーを外すと、鉛の錘に任せて、糸がするすると伸びてゆく。リールはくるくると勢いよく回り、仕掛けは宙を下へ降りて行く。しばらく経ったところで、仕掛けは波間に潜った。まだリールは回っている。この辺がたなかな、という勘が頭を掠めた。私はリールのストッパーを掛けた。
 窓からすっと伸びた長い竿。その先から、下に伸びる透明の道糸。崖下の波間の、どこに糸が伸びているか、ここからではもはや分からない。時おり微風がやって来て、道糸を弓なりにたわませる。
「どう?」
 紗代子が言った。紗代子は机にもたれるようにして座り、畳に両脚を斜めへ投げ出していた。
「今、やったとこ」
 私はぶっきらぼうな返事をした。また風が来て、竿がわずかに右へしなった。
「どれどれ、ちょっと見てやろう」
 紗代子は立ち上がって、いそいそと近づいてきた。裸足で畳がぺたぺたと鳴った。
「うわぁ、たかぁい」
 紗代子はまともに下を見下ろした。崖の下では、相変わらず波がさざめいていた。
「いい眺めじゃない。よく取れたね、この部屋」
「偶然だよ。たまたま空いてたんだ」
「たまたま?」
 紗代子は思わず笑った。
「たまたまでいい部屋が取れるなんて、私たち、ちょっとツイてない?」
 紗代子は私の左肩にもたれた。彼女の髪が、私の耳元を掠めた。そして紗代子は、私の首の下に自分の顔を寄せた。
 私は、手に持っていた竿を、そっと畳の上に立てかけた。
 紗代子の頭の後ろを手で受けて、私は唇を合わせた。今日はいつも以上に舌がもつれ合った。舌の上とか、舌の裏側、口腔の上辺りとか、前歯の裏側、そういったところの、いつもは余り触れずにいるところを、今日はお互いにまさぐり合った。左手で紗代子の背をくっと押してみた。紗代子は私の右の二の腕を、くっと握り返した。
 いつもより長めに時間を取って、私は唇を離した。紗代子の目はとろんとしていた。紗代子は私の胸にうずくまった。私は両腕で、彼女の胴を引き寄せた。
「私ね」
 紗代子は目を閉じたまま、微笑んで言った。
「ちょっと、幸せかな」
 私は、少しぎくっとした。本当かな?という気持が、心の底を打った。
 自分は紗代子とこういう仲になれるなんて、夢にも思わなかった。思ったとしても、それはあくまで夢にしか過ぎず、現実にはありえないと思っていた。紗代子と喋るようになってからは、少々勇気を出して、いろいろ誘いを掛けてみた。自信の無い男は嫌い。女というのは、そういうものだと分かっているので、なるべくそつなく振舞うようにしていた。幸い、紗代子は私の誘いをどれも受けてくれた。そしてこうして、海辺の旅館に泊まり掛けで来るまでになった。
 彼女は、幸せそうに見えた。現にこうして、私の前で幸せと言った。
 ただ、自分はというと、心の底からの幸せ、というほどのものは感じられなかった。幸せと言えば、幸せな方なのだ、と思ってはみる。しかし、心の底では、あるいは心の周りには、漠然とした不安のようなものが漂っている。自分は、彼女の幸せに、どこまで応えることができるのだろうか?彼女の期待に応えられなくなった時、彼女は自分から去ってしまうのではないだろうか?彼女がいなくなると、私は非常に寂しくなる。彼女に出会うまでの、あの耐えられない寂寥感、それ以上の寂寥感が、私に襲いかかってくるような気がする。私は、どうしても自分に自信が持てない。しかし、そんな自分を彼女に微塵も見せる訳にはいかない。自信のない自分を見たならば、彼女はたちまち私を頼りなく思い、愛想を尽かして去ってしまうだろう。ああ、結局、彼女は私の元を去ってしまうというのか。二人の間にいつか別れがくると分かってはいるものの、それが私の望まない形で、早々と来てしまうというのか。
「ちょっと、幸せかな」
 紗代子の言葉に、私は黙って彼女の頭を撫でてやるしかなかった。ふっと、自分の心臓が脈打つのを悟られるような気がしたので、私は自分の右肩の方に紗代子を寄せた。
 体が少しくらっとして、欄干に強くもたれた。
「あっ」
 私は紗代子を抱いて起き上がり、とっさに畳の上にしゃがみ込んだ。あの瞬間、私たち二人は死ぬような気がした。欄干から、二人の体が宙に投げ出されて、そのまま崖下の波間に真っ逆さま―――
 一瞬の出来事に、紗代子はきょとんとした顔をしていたが、不意に笑みがこぼれ、声を出して笑った。
「どうしたの?そんなに、ビビっちゃって」
 私はまたぎくっとした。ビビっちゃってる、自分。そんな自分を、彼女に見付けられてしまったような気がした。自分に自信のない自分。頼り甲斐のない自分。そんな自分を彼女に見られてしまった。彼女が、自分から、遠ざかってしまう。そんな恐れが、私の背をそっと撫でた。
 私は、本当に何かに怯えたような顔をしていたのかもしれない。笑みを浮かべていた紗代子の顔が、徐々に真顔になってきた。やばい、まずい。
 カタッ、と音がした。
 畳の上に投げ出されている紗代子の足の向こうで、竿の尻がわずかにずれた。欄干に立てかけていた竿が、よろっと倒れてきた。
「あっ」
 私はとっさに、竿をつかんだ。道糸が、ぴんと張られた。竿を持つ手に、ぶるっ、ぶるっ、と脈が伝わってきた。
「これは」
 私は竿を両手で構えて立ち上がり、脚を開いて踏ん張った。竿先が、くくっ、くくっ、と下へ引かれている。道糸の先の、崖下の波間を見たが、相変わらず小波が揺れているだけである。
 ともかく私は、リールを巻くことにした。ハンドルを握る手にまで、びくっ、びくっ、と脈が伝わってきた。竿の引きは、それほどでもない。余り大きくはないようだ。私はひたすらリールを回し続けた。
 崖下を見ていると、海面の一箇所がキラッと光った。あそこだ。私はさらにリールを巻いた。光の瞬きは次第に近づいてきた。やがてそれは、跳ねている魚の形になった。
「アジだ。三匹もいるぞ」
 私はさらに勢いづいて、リールを巻き上げた。銀色の体を光らせたアジが、欄干の下でぴゅんぴゅんと跳ねていた。
「紗代子、網を取ってくれ。クーラーの横に、置いてあるから」
 私は部屋の隅に置いてある、クーラーボックスを見ながら、紗代子に呼び掛けた。紗代子は畳を立ち上がり、隅へ駆け寄った。在りかがすぐに分かったらしく、紗代子は片手に網を持って、じきにこちらへやってきた。
 網を受け取った私は、欄干の向こうへ手を伸ばし、魚を捕らえようとした。しかし、魚はなかなか網に入ってくれない。紗代子は気が付いたのか、私から竿を取って、部屋の中に引き入れた。そして、リールをきりきりと巻き始めた。魚は旅館の建物の壁に近づき、徐々に私の目の下に近づいてきた。ちょうど欄干の縁に近いところまで来たので、私は魚を網に入れた。三匹のアジが、網の中でぴちぴちと跳ねていた。
 それを見た紗代子は、竿を畳の上に置いて、部屋の隅にある電話に飛びついた。
「あ、もしもし?ちょっと、来てくれますか?いえ、ちょっと、魚が釣れたんで」
 受話器を置いた紗代子が、こちらに振り返った。
「釣れちゃったね」
 紗代子が笑みを浮かべて言った。
「餌、つけてなかったんでしょ?」
「ああ」
 さびき釣りは、針に餌をつけない。針には、さびきに似せた「似せ餌」が付いている。その代わり、いわゆる撒き餌として、道糸につけた金網の筒にさびきを詰めるのだ。海中に仕掛けが沈むと、金網からさびきがあふれ出す。水中に漂うそれをアジが食べるのだが、中には誤って針の付いた似せ餌に食らいつくものがいる。それが釣られてしまう、という訳だ。しかしまさか、さびきを詰めることなく、釣れてしまうとは思わなかった。
 そう話すと、
「私たちって本当に、ツイてるね」
と、紗代子は満面の笑みを浮かべて言った。
 戸を叩く音がした。旅館の料理人と思しき男が、盥を持って現れた。
「どうしたんです?おお、これはすごい。アジですか。えっ、さびきなしで?そりゃすごいねえ」
 男は大変驚いていた。男もどこか嬉しそうだった。
「こいつは今晩、天ぷらにしますよ。あ、もちろんサービスさせてもらいますから。天ぷらでいいでしょう、ねぇ、奥さん」
 紗代子は笑った。とても嬉しそうだった。
「ねぇ、聞いた?『奥さん』、だって」
 男が部屋を出た後、紗代子は私に抱きついて言った。紗代子は目を閉じて、満面の笑みを浮かべていた。少し、涙ぐんでいるようにも見えた。
 私は、紗代子を抱き寄せた。さっきよりは、やや落ち着いて、紗代子を抱き寄せることが出来た。
 窓の方を見た。欄干にもたせて置かれた竿は、空に向かって、一直線に伸びていた。

(平成十六年十月七日)

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