石橋正雄の「生き方上手じゃないけれど」

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zoom RSS 石川達三 「四十八歳の抵抗」

<<   作成日時 : 2005/11/20 00:42   >>

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 自分はもう若くは無い。それに気付いたのは三年ほど前のことだ。
 確か初冬の頃、厚手の上着を新調しようと思った私は、休日新宿に出かけた。東口近辺のとある服屋に私は入った。その服屋は若者、だいたい二十代あたりをターゲットにした品揃えをしている店であった。
 店内であれこれ品定めをしていると、二人連れの若い男が入ってきた。恐らく二十歳前後だろう。彼等は私よりやや離れたところで、雑談をしながら商品の服をいじっていた。
 すると突然、彼等の声が私の耳に飛び込んできた。
「へぇ、この店って結構歳いってる人も来てるんだ」
 私は胸を刺されたような気がした。店内をそっと見回してみると、どう見ても私より若い人たちしかそこにはいない。「歳いってる人」というのは、明らかに私のことであった。
 私の年齢は、既に二十代を終えていた。しかし、まだ自分は若手の部類に入っていると、心のどこかで思っていた。だが非情なことに、私はもはや本当の若者にとっては、若者とは見做されない年齢に達していたのだ。
 私は非常に窮屈な思いがした。私は場違いな場所に来たんだ。来てはいけない場所に来てしまったんだ。身分不相応な場所に来てしまったんだ・・・。
 その時である。「もう自分は若くない」と悟ったのは。

 それ以後、私は「自分は若くは無い」ということを自覚しながら生活することを心掛けるようになった。服屋はもちろん、あからさまに若者ターゲットの店には入らないようになった。若者向けの美容室には行かなくなり、中高年でも入れるような理髪店に行くようになった。若いカップル向けのようなレストランには行かなくなり、背広姿のサラリーマンが背中を並べるカウンターの飲食店で食事をするようになった。「ここはお前みたいな年寄りが来る場所じゃない」―――そう思われること、あるいはそう思われていると自分が思い込むような事態を招きそうな場所から、ことごとく足を遠ざけるようになった。
 自分はもう若くない―――しかし私は、多くの人たちが華々しい時を過ごすはずの青春時代を、どれだけ満喫したことだろうか?私は若い頃にしか経験できないこと、若いうちに経験するからこそ意義のあることを、ほとんど経験してこなかったように思えてならない。そういうことを、これからはもはや経験することが出来ないのだ―――そう思う度、私は非常に切ない気持ちに陥るのである。
 若いうちに経験するからこそ意義のあること―――その最たるものは、恋愛経験であろう。

 「四十八歳の抵抗」は、保険会社の次長である西村耕太郎(西村京太郎のペンネームの由来か?)が、自分よりも三十歳近くも年下の女であるユカに純愛を抱き、何とか結ばれようと立ち回る話である。その話を主軸として、妻さと子への倦怠、娘理枝とのいさかい、かつての部下であった山岸知世子への情欲等、さまざまな女性との係わりが絡んでくる。
 この話の前提となるのが、四十八歳を迎えた西村が抱いている、行き場の無い閉塞感である。

 やがて停年がやってくる。その時期は、もう眼のまえに見えている。恐らくは退職の日まで、現在の生活がこのまま続いて行くに違いない。なにか新しい、別の人生はないものだろうか。もっと強烈な、もっと危険な、もっと生き甲斐のある人生はないものだろうか。(本文より)

 この西村耕太郎の言葉に心底共感できるのは、恐らく三十代以降の男性であろう。
若い頃は大いに夢想していたはずの無限の可能性が、歳を重ねるたびに一つまた一つ消えて行く。年老いた身体で残りの人生で何が出来るかとなると、大方先が見えてしまっている。しかし、自分はこのままで終わりたくない。終わるにしては、やり残したことがたくさんあるのではないか。そう思うと、心が冷え冷えする。そのようなやるせなさが高じると、なぜか男は女を抱きたくなるようだ。女を抱くことによって、自分がまだ男として終わっていないことを実感したいのかもしれない。自分にはまだ何らかの生き甲斐があることを、心身全体で感じ取りたいのかもしれない。
 この心理は男性なら十分共感できるであろうが、女性には全くと言っていいほど理解してもらえないだろう。
「大切な妻も子供もいるはずなのに、なぜ彼女たちを裏切り傷つけるようなことを、男たちは平気で出来るのか?」
 こんな風に憤る家族愛主義者の女性は多いことだろう。
 しかし、浮気や不倫をするような男たちは、妻や子供を裏切ろうなどとは全く思っていないであろう。あけすけに言えば、男たちの抱いている閉塞感は、彼女達が考えているような「家族愛」などで満たされるものではないのだ。男たちは、オスとしての本能を発揮できる相手が欲しいのである。オスとしての本能とは、新たなメスを自らの手で獲得し、生殖行為を行うことである。子供を繁殖し育むための生活基盤を固めようとするメスの本能とは、まったく次元が異なるのだ。

 このように考えてみると、「四十八歳の抵抗」のストーリーは、意外な観点から解釈できるのではないだろうか。
 即ち、もうオスとしての役割を終えようとしている西村耕太郎と、オスとしての役割を如何なく発揮している、曽我法介や能代敬という二人の若者とが、対比的に捉えられることである。
 西村耕太郎は、これまでの数多くの人生経験を踏まえて、曽我法介や能代敬に対峙しようと奮闘する。しかし、結果的に西村耕太郎は、彼等二人の如才ない行動に、まんまと翻弄されてしまっているのである。
 西村耕太郎は、曽我法介や能代敬の如才なさに嫌悪感を抱いている。それは西村耕太郎が、善良な生き方を心がけているということや、「大人」という超然的な態度を取ることを美徳としていることが足かせとなって、強かに迫ってくる若者二人に対し、高圧的な態度に出られない、という側面もあるだろう。しかしそれ以上に重要なことは、オスとしてのパワーを如何なく発揮する二人の若者に対抗するだけの気力を、西村耕太郎がもはや持ち合わせなくなったということであろう。西村耕太郎は、若者二人のオスとしてのパワーに押され、あっけなく敗れてしまったのである。

 こうして西村耕太郎は、もはやオスとしてのパワーを失った自分に見切りをつけて、なされるがままの人生を歩むことになりそうだ。もう若い女性に手を出すこともないだろう。
 しかし、世の男性の皆さん、何も全く諦めることは無い。
 「愛があれば歳の差なんて」などと言うが、歳の離れた男女のペア、果たしてどちらの方が年上のケースが多いであろうか?圧倒的に男性の方であろう。中村鴈治郎は七十歳であるにも係わらず、十九歳の舞妓とホテルで密会しているのである。これには扇千景も怒るどころか、「浮気も出来ないようじゃ困る」と言わんばかりのコメントをしていた。齢七十にしてなお盛んな中村鴈治郎のオスのパワーに、むしろ感嘆した人の方が多いのではないだろうか。
 私が思うに、女性は自分より歳が上の男に対しても、身体を開けることが出来るように造られているのではないだろうか。逆に男にとっては、ある程度の年齢以上の女性を、抱こうという気にはならないはずだ。男性の精子は死ぬまで体内で造られる。一方女性は更年期を迎えるともはや出産は不可能だ。種の保存という生物の使命を考えると、上記のことは納得が行くだろう。

 「浮気は男の甲斐性だ」として、妻子を持つ男が妾や愛人を作ることは、戦前では当たり前のことであった。オスとしての本能の解消という観点からすれば、非常に合理的な仕組みであったと思う。ところが戦後はそれをことごとく否定されてしまった。いまや男は浮気をすれば、離婚の正当な理由として認められる上に、巨額の慰謝料や養育費を負わされるハメになってしまう。これではオスのパワーの発揮などとても望めない。性欲の解消は自分の嫁だけにしろというのは、男にとって酷な話だ。
 長い日本の歴史の中で、今ほど男にとって生き甲斐のない時代は無いだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
 男女共同参画社会などと叫ばれているが、男女にとって生き甲斐のある社会の有り方を、今一度考え直す機会が来ているのではないだろうか。

【入手情報】
 新潮文庫から刊行されていたが、やはり絶版である。しかし、新潮文庫の石川作品の中では、比較的探しやすいのではないかと思う。というのも、「四十八歳の抵抗」が絶版となったのは比較的最近のようだからだ。

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