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「僕って何」を読み終わった。 面白かった。素直に楽しみながら読めた。 私は楽しんで読むことが出来たが、この作品は、面白いと思う人とそうでないと思う人とで意見が別れてしまうような気がする。 思うに、この作品は読み手を選ぶ小説だと思う。 大学に入学するために「僕」は東京にやって来た。しかし、やっとひとり立ち出来ると思っていた「僕」に対して、母親は過剰なまでの気配りをしてきた。そんな母親の態度に腹を立てた「僕」は、母親と喧嘩じみた別れをしてしまった。そしていざ大学のキャンパスに入ってはみたものの、明る過ぎるキャンパスの雰囲気になじめず、半月の間誰とも喋らずに過ごしてしまった。そんなある日、学生運動組織のB派に所属する山田に声を掛けられた。そして言われるがままにB派の集会に参加してしまった。デモの行進をする中で、「僕」の気持ちは高ぶり始めた。それもつかの間、B派のデモ隊は対立するD派との衝突を始めた。そこに機動隊までもがやって来た。逃げ惑う僕。そこへ、B派を気丈に取り仕切るレイ子がやって来て、「僕」に逃げ道を教えてくれた。そういうレイ子の振る舞いに、「僕」はレイ子が自分に好意を持っているのではないかと思い始めた――― これがこの小説の冒頭の部分であるが、こういう「僕」をあなたはどういう目で見るだろうか? 「なんて情け無い男なんだろう。こんな引っ込み思案でウジウジした童貞みたいな奴なんか、最低だね」 こう思ってしまう人は、恐らくこの作品とは無縁な方であろう。 「分かる!『僕』の気持ち、すっごくよく分かる!」 こう思ってしまい、「僕」に強烈なシンパシーを感じる人も少なからずいるだろう。実は私もその一人である。「僕」のように、高校生時代は異性に縁が無く、ずっと勉強することだけで過ごして来た人なら、「僕」の気持ちはとてもよく分かるはずだ。 この作品を十分に味わうには、学生運動に関する知識が必要だろう。 かく言う私も学生運動に関する知識は全くと言っていいほど持ち合わせていなかった。全学連と全共闘の違いも、この小説を読むのをキッカケに調べてみて、初めて分かった。そもそも、学生自治会についてすらもよく分かっていなかったのだ(私は大学時代、サークルに所属していたので自治会を意識するようなことは全く無かった)。 もし私のように、学生運動に関する知識が全く無い人がこの作品を読んだら、この作品中の学生運動を非常に奇妙に思うことだろう。特に最近の学生のように、少人数の気の置けない仲間とのじゃれ合いしか知らない人たちにとっては、全くと言っていいほど理解できないだろう。 「授業料の値上げごときで、どうして皆こんなに必死になってるの?」 「どうしてパイプや角材やヘルメットやバリケードを持ち出してまで、必死に戦おうとするの?」 「どうしてこんなヘンな派閥を作ろうとするの?どうして派閥どうしで必死に争ったりしてるの?」 「そんなに必死になって、何かメリットがあるの?そんなことやっても、無駄だとは思わないの?」 私もそう思ってしまった。言うなれば、大学のキャンパスの中で学生たちが戦争ごっこをしているのと同じである。小学生みたいに、何組かのチームに分かれて、陣取り合戦をしているのと大して変わらないと思う。三田氏も恐らく、在学中にそういう思いをしながら学生運動を見ていたのかもしれない。 ではなぜ当時の学生たちはこんなにまで必死になっていたのだろうか? まずは、彼らの必死度合いから見て頂きたい。恐らく、今の中高生はこういう映像を余り眼にしていないかもしれない。 http://members.at.infoseek.co.jp/historie/ どうであろう?これがたかだか三十数年前の日本で起こっていたのだ。こんなにも大勢の人たちが揃って行動する姿を、この数十年の間に日本で見たことがある人はいるだろうか?今や個人主義が当たり前となった日本社会では、もはやこのような集団行動が見られることはまず無いと言っていいだろう。 それではなぜ当時はこのような集団行動を学生たちは起こしたのだろうか? それは山本七平流に言うなら、「時代の空気がそうさせた」のだ。 この辺りについては、下記のサイトをご覧頂きたい。大学生の卒業論文だが、学生運動についてかなり分かりやすくまとめ上げている。「時代の空気がそうさせた」ということが、分かって頂けるかと思う。これを読んでから「僕って何」を読めば、より楽しむことが出来るだろう。 http://www1.quolia.com/kt_yamamoto/ http://www1.quolia.com/kt_yamamoto/hase_shou.htm さて、この作品のメインテーマは何かというと、「人と人とのつながり」である。 主人公の「僕」は、作品中で何度か喜びを感じるシーンがある。それは、B派のデモ行進に参加した時、海老原に全共闘に誘われる時などである。どれも、他の人たちと人間として接しているという感覚が得られた時に、「僕」は喜びを感じているのだ。 そう、「僕」は人と人とがつながることによって、そこに愛情を感じていたのだ。思想に対するシンパシーでは、真に人間同士のつながりを得ることは出来ない。愛情(言い換えれば「博愛」)というものがあって初めて、人間同士がつながり合うことが出来るのだ。そして愛情というのは、言うなれば相手への「無条件な肯定」によって得られるものなのだ。
「僕」が本当はどうであるかなど、一切疑いを抱くことなく、レイ子も母親も「僕」に愛情を注いでくれたのだ。 人間は生まれてくると、母親から無条件の愛情を受ける(最近の母親はそうでもないようだが・・・)。生まれてきた子がどうであろうと、自分から生まれてきたことは変わりない。そういう子供に対する愛情は、盲目的な溺愛かもしれない。だがその溺愛を受けることによって、子供は人との結びつきによって愛情が得られること、そしてそれを快いと思える感覚を身に付けることが出来るのだ。 人間は、愛情によってでしか他人と真に結びつきを得ることは出来ない。愛情による人との結びつきが無ければ、人は孤独や不安を感じるようになり、精神が荒廃に向かってしまう。しかし、誰からでも愛情が得られる訳ではない。だからこそ、真に深い愛情を注いでくれる相手が必要なのだ。 その「真に深い愛情を注いでくれる相手」は、当初は自分の母親である。しかし、いつまでも母親から愛情を得てばかりはいられない。自分の母親は、通常自分よりも先に死んでしまうのだ。そこで人は、母親以外に「真に深い愛情を注いでくれる相手」を探そうとする。こうして愛情を与えてくれる相手は、母親から恋人または配偶者へと移ってゆくのだ。そして今度は、自分と配偶者との間に生まれてきた子供に愛情を注ぐようになる。このようにして果てしなく続いてゆく輪廻こそが、人間の営みなのだ。 「僕って何」のテーマは、正にここにあると言える。 この作品は学生運動という社会事象を題材にしているにも係わらず、社会的なメッセージ性は希薄な方である。しかし、ごくたまに社会批判めいたことを書いている場面がある。 黒メガネの男が、キャンパス内の内ゲバを見ながら語る台詞だ。
この台詞は、全共闘運動が幻想に過ぎなかったことを指しているだけではないように思える。 上記の台詞を、「一般学生」を「日本国民」に、「セクト」や「組織」を「政治派閥」に、「全共闘」を「市民社会」に置き換えて読み直してみよう。 どうであろうか。国民を無視して派閥争いに拘泥している日本の政治家たち、その一方、社会への参加意識が全く無く、傍若無人を決め込んでいる日本国民を、痛烈に批判しているではないか。 ちなみに、作品中の「僕」は三田氏の人格の一部を投影したものに過ぎない。三田氏の人格の他の側面は、実は「黒メガネの男」に投影されているのだ。それは、「僕」が「たぶん自分はこの男と同じ種類の人間だ」と思っていることから分かる。実際、「黒メガネの男」は、「ちょっとした会社の社長の息子」であり、「苦労知らずのお坊っちゃん」であることから、これはまさしく三田氏本人のことを指していると考えられる。 三田氏はコピー機で有名だった三田工業の創業者の子息なのだ。 「だった」と過去形になっているが、これは知っている方はご存知であろう。そう、粉飾決算をしたことが発覚して、三田工業は’98年に倒産してしまったのである。この話は当時経済界で大いに話題になり、アメリカでのエンロン事件と相俟って、企業会計のあり方に大きな波紋を投げかけたのだった。 なお、三田工業は現在、京セラの100%出資子会社として、京セラミタ株式会社という会社名で事業を行っている。恐らく、三田氏とは何の係わりも無い会社となっていることだろう。 お楽しみ頂けましたか? |
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