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現在私が芥川賞の作品を読んでいる理由は、現代の主要な作家の多くが芥川賞を受賞したり候補となったりしていることにある。即ち、芥川賞の受賞作・候補作を読んでいくことで、現代作家の作品をほぼ網羅できるだろう、と考えているからである。 今回取り上げる作品は、芥川賞作品ではない。しかし、現代の文学を語る上で高橋源一郎は欠かせないであろう。この「さようなら、ギャングたち」は長編であったため、短編作品を対象とする芥川賞の候補には選ばれなかった。しかし、もし高橋氏のデビュー作品が短編作品であったなら、ほぼ間違いなく芥川賞の候補となっていたはずだ。 さて、非常に難解と評される高橋作品。 しかしいざ読み始めてみると、思ったよりもすんなり作者の意図が汲んで取れた。これは決して自慢しているのではない。作者の意図が分かるように、この小説はちゃんと書かれているのである。 少なくとも今の私のように、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」、村上春樹の「風の歌を聴け」、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」を続けて読んでいれば、この作品のテーマも自ずと明らかになってくるというものだ。 この作品のテーマは、一言で言うなら「現代社会におけるアイデンティティのあり方」だ。自分らしさ、自分の個性、自分のあり方、それが現代社会ではどのように作られて行くものなのか。そしてその「自分のあり方」というべき各自のアイデンティティを、人間どうしがどのように認識しあうのか、それを通じて人と人とがどのように係わりあうのか。その有り様がこの作品のテーマなのである。このテーマを、従来の倫理や価値観の崩壊、大量消費社会の飽和的状況などといった、現代社会の様相を背景とした上で描こうとしているのである。 こんな抽象的なテーマを、従来のような物語的な小説スタイルで書こうとすると、かえってまどろっこしくなったり、読みづらくなったりすることで、作者が伝えたいテーマを正確に伝えることが逆に困難になってしまう。そこで高橋氏が取った手法が、シュールレアリスム的な手法だ。伝えたい抽象的な概念を、何かの事物に託す(これを「暗喩」「メタファー」という)ことは従来の純文学と大きくは変わらない。しかし、それを敢えて非現実的な象形の描写に託すことによって、読み手の理性及び感性に働きかけることにより、現実的な事物に託す以上に伝えたい概念をより強く訴えようとしているのだ。 こういった手法の採用は、何も高橋源一郎が最初ではない。カフカはもちろんのこと、日本でも安部公房がずっと以前に取り上げているものだ。しかし、安部公房と高橋源一郎を比較してみると(少なくとも安部公房の「壁」と比較してみると)、そこには僅かながらも決定的な違いがある。安部公房が基本的に単一のストーリーの流れの中でテーマを表現しようとしているのに対して、高橋源一郎はフラッシュバックのような場面を重層的に積み重ねようとしている。その結果、一つ一つの場面のつながりを読み手が意識することによって、作品全体として訴えたいテーマが読むにつれて浮き彫りになって行くのだ。 こう書くとこの作品が非常に硬質なように思えるが、もちろんそんな訳では決してない。非常にユーモアに溢れた、むしろ笑いを誘われるような文章である。これまで何度も書いてきたことであるが、ユーモアというのは強力な武器である。読み手の心を自然に開け、その中にするりと入り込むには、書き手にとってこれに勝る武器は無いと思う。 しばらく読んでから改めて気が付いたのだが、この作品では哲学的な命題を小説のスタイルで批判する手法を取っている。 その例として挙げられるのが、「おばあさん」が「あばれどくとかげ(ヒーラ・モンスター)」の格好について言葉で表現できずに、「わたし」に相談するシーンである。 ここでは、「概念は言語によって的確に表現することは困難である」という、ある意味自明の命題を、超現実的なシーンの描写によって、ユーモラスに描いている。「あばれどくとかげ」という「存在」はある。だが、それをどう人間が「認識」し、「概念」として抽象化できるか、という点に関しては、それは非常に流動的なものではないか。即ちTPOによって、認識する人間によって、様々に変わりうるものではないか、ということを示している。そして、ある人間によって「概念」の言語化に成功したとしても、その言語化された「概念」を他者が十分に「認識」できるかどうかは、まったく保証が無い。 すなわち、本来は人間間でのコミュニケーションの手段として用いられるべき「言語」が、その役割を十分に果たし得ないケースがあるばかりでなく、時には非常に個人的なツール、即ち自己が「認識」し抱いた「概念」を、自己が理解するために用いられるという、内省的なツール、閉鎖的なツールとして用いられることもあるのだ。 ということは裏返せば、他者が自分に向けた「言葉」自体が、自己の内部にある「認識」のシステムによって意味解釈され、自己内部において「概念」が形成される、ということでもあるのだ。そのようにして自己が抱いた「概念」は、他者が当初期待していた「概念」とは異なるかもしれない。だがそれは、言語というツールの宿命とは言えないか(これについては、「わたし」と「木星人」とのやり取りにおいて克明に記されている)。 このことは、高橋源一郎が書いた「さようなら、ギャングたち」という作品自体についても言えるのではないだろうか。この作品が楽しめない人がいるとすれば、それは読み手に内在化している「認識」システムが、高橋氏が発した言葉を意味解釈するには不都合があるか、あるいは、仮に高橋氏の言葉を意味解釈出来たとしても、読み手の内部において形成された「概念」が、読み手にとって受容し難いものであるか、等々の理由が考えられる。 例えば、作品中にはハイデガーの「存在と時間」を彷彿とさせるようなシーンがある。私は「存在と時間」についてさしたる知識を持ち合わせていないので、この部分については想像と感覚だけを頼りにして読むしかなかった。そのような訳で、「存在と時間」を読破した人がこのシーンを読んでどう感じるかについては、非常に興味深いところだ。 このように私が書いたこの文章を読んでも、「何がなんだかよく分からない」と思う方がいるだろう。書いている私でさえそう思う。それは作品で扱っている内容が非常に抽象的だからである。だがこのような議論を、「さようなら、ギャングたち」は非常にユーモア溢れる文体で描いているのだ。抽象的な議論であるにも係わらず、堅苦しいどころか、むしろ軽さすら感じられるのである。そういう点では、この作品は正に「知的娯楽小説」と呼べるだろう。 この作品を最後まで読んだ方ならお分かりになるだろうが、この「さようなら、ギャングたち」は高橋源一郎の半生を振り返った作品でもあるのだ。 高橋氏は中学生の頃、詩の美しさに目覚めた。そして大学時代、全共闘が掲げる思想に共鳴して、かなりラディカルな活動を行っていた。しかしそれは挫折に終わってしまった。その後高橋氏は失語症となり、肉体労働に従事せざるを得ない状況になってしまったのだ。 ここで重要となってくるのが、この作品のキーワードである「ギャング」である。 「ギャング」とは何だろうか?思うに「ギャング」とは「暴力」のことではないかと思う。「暴力」というのはさらに言うと、「破壊的な衝動」である。何かを壊してしまいたい、と本能的に感じる心の働きである。 敢えて端的にいうなら、「詩人」とは「美や理想を追求する存在」、言うなれば「人間の肉体や精神を超えた形而上学的な概念に憧れる存在」である。かたや「ギャング」とは「美や理想を妨げようとする醜い心を持った存在」、言い換えるなら、「原罪という宿命を背負った動物としての存在」である。 理想の社会を求めてスタートしたはずの全共闘運動。それは結局のところ、暴力によって理想を勝ち取ろうとする集団テロ(即ち、「ギャングたち」)であった。そして全共闘運動は大いなる挫折に終わり、残党たちはさらに過激なテロリズムに走ってしまった。 高橋氏は、自分には「ギャング」としての側面が備わっており、そういう自分から決して逃れることは出来ないということを、それまでの人生の経験で痛感したのではないだろうか。全てを理想通りになし得る存在には、決してなれはしないということを、身をもって思い知ったのではないだろうか。しかしそんな氏であっても、美や理想に憧れる自分の心は、決して封じ込めることは出来ないのである。
この作品は、「詩人」を目指していた過去の自分に決別し、「ナイスなギャング」であろうとする自分を受け入れる、高橋氏の高らかな自己表明であったのだ。 何はともあれ、この作品はとても面白かった。とてもユーモラスであると同時に、とてもスリリングな作品であった。内容が非常にシュールであるにも拘らず、読み手を決して退屈させない。じんわりとした感動に包まれながら、この作品を読み終えることだろう。 確かに素晴らしい作品であった。「日本の現代文学の金字塔」とするのはいささか大袈裟であるように感じるが、この作品によって呈示された数々の試みは、日本文学史においてかなりの意義を有していることは認めなければならないだろう。 だが、この作品は宿命的かつ致命的な欠陥を持っている。 「これだけで、もうお腹いっぱい」 現在、高橋氏の小説作品は僅かにしか書店に並んでおらず、大半はもう既に絶版となっている。 残念ながら、これが高橋氏の現状だ。 お楽しみ頂けましたか? |
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